極楽浄土の非常識

 「浄土へ行った故人は、娑婆の苦しみから解放されて、楽しくやっていることでしょう…」という弔辞を聞きました。浄土って“場所”のことなのでしょうか? また、お浄土のことを極楽ともいうので、感覚的な快楽が続く世界のように思っておられる人も多いようです。

 たしかに浄土真宗では、浄土は西の方角にあるすばらしい世界だと説明します。でも、浄土を環境としてとらえるならば、あの世や冥土と同じ次元の妄想になります。しかし浄土は、現世において感得されるさとりの世界として存在します。つまり、心に直接はたらきかける境界として存在するのです。

 具体的な例で説明しましょう。江戸時代の禅僧で日本臨済宗中興の祖といわれる白隠(はくいん)の話です。ある日、白隠のところに武士が来て問います。「地獄や極楽は本当にあるのですか?」だが、白隠はまともに返事をせず、問いを無視して「おまえは武士のくせに、地獄や極楽といった死後の心配ばかりしている。死ぬのが怖いのだろう。武士なら武士らしくしろ! おまえのような腰抜け武士など、武士の恥だ!」と、さんざんに罵倒しました。白隠の言葉に腹を立てた武士は、「許さぬ!」と刀を抜いて白隠に斬りかかります。それをひらりとかわした白隠は、「それ、そこに地獄がある!」と言いました。

 武士は、はっと気がつきます。彼は平伏し、白隠に詫びます。「老師、ご無礼をお許しください」「それ、そこに極楽がある!」白隠はそう言いました。地獄も極楽も私たちの心の眼の向けようによるのだということを白隠は教えたのです。

 これは禅宗の話ですが、浄土真宗にも通じるものがあります。『阿弥陀経』には極楽浄土が西方の十万億土を過ぎ去るかなたにあると説かれています。極楽浄土が途方もないかなたに存在するというのは、浄土に生まれることがいかに難しいかを示すとともに、真実の境界と私たちの心の隔たりがいかに大きいかを表しています。

 真宗仏光寺派の総務・日野英宣師は、ご縁をいただかれた先生から「親にさえ頭が下がらない人間に、お念仏の心などわかるはずがない」と喝破されたそうです。私たちは「生きている親に、一度でも頭を下げたことがありますか」と問われて、「ハイ、あります」と、率直に言いきれるでしょうか。下げるまねをしたことはあっても、頭を上げて見ようがない存在として親に接した覚えはありません。額と畳の間のわずか1メートルばかりの距離が、心の隔たりから言えば、十万億土のかなたに等しいのです。

 浄土とは「私たちの心のありようを気づかせるもの」と受けとめることができます。宇宙のどこかにある“場所”の説明ではありません。