ご本尊の非常識


 あるお寺さんが、門徒さんの入仏式に行かれたときの話。補修してきれいに塗り替えられたお仏壇を見てびっくり。そこには御本尊のお姿はなく、代わりに位牌が4つ5つ並べてあったのです。阿弥陀さんは?と尋ねると、奥から古い御本尊を出してこられました。しかし、その御絵像はボロボロで半分ちぎれて掛けることもできない状態でした。これではお勤めにならないので、本山から新しい御本尊をお受けして、後日改めて入仏式をすることになりました。聞けばその門徒さん、仏壇には位牌があったらそれでいいと思っておられたそうです。

 「本尊」とは一般に、私たちが礼拝の対象とする中心の仏のことをいいます。そもそも私たちは何を礼拝するのでしょうか。お仏壇? 位牌? 神棚? お墓? お寺さん? 観音さん?...これらを真っ先に思い浮かべた方、浄土真宗としてはまだまだ非常識です。

 皆さんが拝読されているお経本の最初に「浄土真宗の教章」が書かれてあります。その中に「本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」とあります。阿弥陀如来は、生きとし生けるものすべてを救いとろうという願いをもって、その願いをすでに実現され常にはたらき続けておられる仏さまです。私が願うはるか以前から仏の願いは起こされています。「すべてを救う」願いですから、私たちの行ないが善いから救う、悪ければ救わないという区別はしないということです。だから、私にできることといえば、その願いをそのままに受けとめ、右往左往せずに、阿弥陀仏にすべておまかせして安心することだけです。その、すべてをまかせるという心持ちが、仏を「礼拝する」ということです。こちらからお願いして礼拝するわけではありません。私が真のよりどころとして礼拝していくから「御本尊」と呼ばれるのです。

 何かわからんけど有り難そうだからとか、バチが当たったら困るからとか、拝めるものは拝んどこうといった心では、御本尊は見えてきません。逆に言えば、御本尊をしっかり腹に据えておけば、妙なバチあたりを気にすることもなく、逆に阿弥陀如来の願い以上の功徳を期待することもない。いわば、合理的にこの世が過ごせるというものです。

 他の諸仏あるいは遺影・遺骨・法名などの故人の遺物は、確かに軽々しく扱いにくいものですが、阿弥陀如来という礼拝の中核を据えておくなら、それらの見方も自ずと定まってきます。諸仏は阿弥陀如来を讃える存在であり、亡き人は阿弥陀如来の願力によってすでに浄土に往生されている。ということは、諸仏も故人もすべて、私に阿弥陀如来を知らしめるためにはたらいておられると、承ることができます。

 あらゆるものは阿弥陀如来という御本尊を中心にはたらいている。尊いこれらのご縁は、すべて阿弥陀如来のはたらきといえます。だから阿弥陀如来以外のものは、あえてことさら礼拝する必要はないということです。浄土真宗が位牌やお守りを禁ずるのは、それらを拝むことによって、御本尊という礼拝の中心が見失われる危険性があるからです。

 阿弥陀如来は、あらゆる人々を摂め取って捨て去ることはない(摂取不捨)といわれます。私たちは常に如来の光明の内にあるわけですが、もともと如来は色も形もなく、目に見えるものではありません。名号・絵像・木像などの御本尊のお姿は、その色も形もないものを私たちの目に見える形に示したものです。私たちの生活の中に常に阿弥陀如来がともにあったんだということを、これらの御影像を通じて改めて知らされるのです。お仏壇はこの御本尊を安置しお飾りしたものです。御本尊がなければ、いくらお仏壇を豪華に飾り立てても、それはただの金箔の箱になってしまいます。極端にいえば、御本尊をミカン箱に安置してもりっぱなお仏壇になります。大事なのは阿弥陀如来を御本尊として礼拝する心です。