法事の非常識〜その1〜

 『法事』とは「仏法の行事」ということで、あらゆる仏教行事のことをいいますが、「仏法の行事」というからには、仏さまのみ教えを聴き味わうための時間なのですが・・・

【法事は追善供養?】

 現代人の多くが、「法事」とは故人への追善供養だと受け止めています。追善供養とは、死んでいった人が不安定な状態にある(無念と悔いの思いにさいなまれているのではないか、さみしがっているのではないか、迷っているのではないか・・等)と漠然と想像して、その穴埋めをしていこうとするものです。確かに故人に対して何かしてあげたいという気持ちは、自然であたたかい感情かもしれません。
 しかしよくよく考えてみると、一体いつになったら故人は安定するのでしょうか。きっとその答えは出ないはずです。なぜなら、悔いていたり迷っているのは、他でもない、大切な人に先立たれた、自分自身だからです。その自分自身の迷いを、故人の迷いに転化して祈り続けたとしても、鏡の前の自分と喧嘩するようなものです。
 そのような気持ちで法事を修めれば、結局は故人だけでなく自分の人生までをも、空虚なものとしてしまうのです。あとは空しく死んでいくばかりなのでしょう。

【大切な人の死を通して・・】

 私達は、必ず死を迎えます。身近な人の死は、そのことを身をもって教えて下さいます。そしてその厳然たる事実の前では、どんな別れであれ、空しさを感じずにはおれません。しかし仏さまのみ教えは、そんな私達に向かって、一時的な気安めを与えるのではなく、その願いの全てをかけて、別れは「決して空しいものではない」とさけび続けて下さっているのです。
 浄土真宗の「法事」はその仏さまの願いの中で、亡き人を空しい存在として祈るのではなく、むしろその方の死を含めたありのままの生き様を通して、一人の人間が生きて死んでいくという事実の意味を、他でもない自分の一生を通じて確かめていくための時間なのです。
 私達の心の中は、自分を取り巻く環境も含めて、たった一日の中でも刻一刻と変化していきます。たとえ「絶対・・・だ」と思っていたことでも、時間が経てばまた違った見方が芽生えてくることもあります。ましてや人の生き死には、何百年、それ以上の気の遠くなる時間の中で受け継がれてきた命の流れです。
 年忌法要の意味は、その時々の自分の中で、改めて、故人の人生と、自分の人生も含めて、その意味を問い聴いていく大切な時間なのです。それは、故人との新たな出会いの深まりでもあり、同時に、その時々の自分との出会いでもあるのです。

【浄土真宗の年忌法要】

 年忌法要はまず、葬儀を1回目の法事として計算します。よって回忌の年数は、実際に過ぎた年数に1年加えたものになります。ただし、1周忌は、1周年の忌日で、まる1年目の法事です(1周忌=2回忌)。また、浄土真宗では、23回忌及び、27回忌は行いません。100回忌以降は50年ごとになります。


→その2へ続く