法事の非常識〜その2〜

【法事の非常識あれこれ】


●命日を過ぎたらよくない?(法事の日程)

 本当はご命日当日に行うべきでしょうが、現代の諸事情では、そうもいかないのが実際です。そこでご命日より前に(取り越して)行う例が多く見られますが、これも災害や病気などでやむを得ないこともあります。
 逆にいくら日程や作法を完璧にしても、肝心の「故人を通して仏さまの願いを聴かせて頂く」ということがなければ、本末転倒になってしまいます。
 故人に縁のあった方々が集まって、心静かに勤めることができるなら、日にちを過ぎてもかまいません。

●読経は僧侶に任せておいていいの?(法事の意義)

 お経は、死者への鎮魂歌ではありません。お釈迦様や親鸞聖人が説いて下さった、今ここに生きている私達に向かってのご法話なのです。私達のご先祖は、何百年という時間の中で、その教えを受け継いでこられました。その教えを耳で聴くだけでなく、体全体に響かせながら味わうことが、お経を読むという行為なのです。
 また、読経には、「讃嘆」といって、心から讃えるという意味があります。仏さまの教えを、全身で味わい、そしてそれを頂くよろこびを表現する。これが読経の本来の意味なのです。

●読経で終わり?(法話を聴聞する)

 お経は古文や漢文で著されてあるので、ただ聴くだけではその内容は分かりません。そのため、読経だけで終わるのではなく、その後に僧侶の法話があります。
 浄土真宗のお寺では、普段から「ご法座」という法話会を開き、お経の中身を聴く時間を設けていますが、それを聴かれたことのない方には、法事が仏法に触れる唯一の機会となります。しかし現代では、聴かれたこともないのに、仏法を無意味なものと勝手に決めつけている人が多くなっています。中には読経が終わるとすぐにお茶を出されたり、次のスケジュールを気にしてそわそわされる方もありますが、この時間を大切にしなければ、法事を義務的に形式的なものとしてしか感じられなくなります。
 法事を有意義な時間として伝承していくためにも、ぜひ静かに耳を傾けて頂きたいものです。

●会ったことのない人の法事って(時間の経過)

 特に50回忌になると、よほど若くして先立たれた方でない限り、直接的な繋がりはありません。現代は核家族化が進み、命を直接の親子の関係の中でしか実感できない時代になっています。
 しかし現実には、親もまた自分だけで親になったのではなく、無数の命の流れの中で存在しているのは事実です。命を狭い幅で考えるということは、自分の人生をも小さなものとしてしか考えられないようになってしまいます。法事の時間を設けるということは、今自分がここに存在していることに、大きな広がりを見出していくきっかけになるのです。