水子供養の非常識


 ある女性が水子供養をして欲しいとお寺を訪ねてこられました。その女性は死産を経験され、水供養といって小さな器に毎日水を入れて自分で供養をしていたそうですが、最近になって、子どもの夢を見たりして、そのことで何事もうまくいかないように思えてきて、お寺に行ってきちんと水子供養をしていただこうと思い立たれたそうです。

 「水子」とは、堕胎を「水にする」、流産を「水になる」といったことから、流死産した胎児のことを示し、さらに生後間もなく死亡した乳幼児を含めていうようになったそうです(『岩波仏教辞典』より)。こうした水子の再生を願って特別の葬り方をして、水子地蔵を建てて供養する習慣は古くからあったようです。しかし、よくいわれる「たたり」を鎮めるため「水子供養」が行われるようになったのは、ごく最近のことです。合理主義の浸透している現代人は、合理的に判断のつかない不可解なことには、かえって迷信深くなるといえます

 水子供養は浄土真宗の常識からかけはなれています。夢見が悪いとか、不幸が続くといった「不可解」な出来事を、すべて水子のたたりに結び付けていく、その短絡さもさることながら、問題は、亡き子の「いのち」が軽視されている点にあります。

 「いのち」ほど不可解なものはありません。今、この世で忽然として生まれた人はいません。「無始以来」という言葉があるように、連綿と続く悠久な生命の歴史を背景として、今の私が生を受けているのです。親鸞聖人は「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」と、いのちはすべてどこかで繋がりを持っていると示されました。

 また、この1つのいのちを保つためには、多くの「いのちあるもの」を口にしなければなりません。多くのいのちに支えられて、今の私という存在があるのです。いわばすべてのいのちが私のいのちを支えるためにある。そのように受けとめると、私が生きていることそのものが尊いことでもあり、同時に罪悪でもあると感じることができます。

 幼いわが子の死を嘆かぬ母親はいません。悲しみ・後悔など、当初の母の思いは、複雑ではあるが純粋にわが子のいのちを慈しむ心であって、本来たたりやおそれとは無縁のものだったはずです。しかし、そのとき大事な「いのち」の問題を見過ごしていたなら、時が過ぎてたとえ悲しみは癒されても、心の奥底にわだかまりを残します。そのわだかまりは、やがて事あるごとに心の表面に顔を出し、慈しみを通り越して、ただただわが身を責め呵める不幸の元凶と化してしまいます。水子の正体とはこれです。霊の仕業でも何でもない、わが心があり場を失った姿です。

 死者は対決したり逃避したりする対象ではありません。常に私のいのちとの連続の上で受けとめることが必要です。逆にいえば、亡き人のいのちを通じて私の本当のいのちが知らされていくということです。

 お釈迦さまは「仏法は苦悩を除く法」と説かれました。「苦悩を除く」とは、悩みを「解消」することではなく、「解決」を目指すものです。行く先定まらぬ迷いのおのれの姿を直視し、いのちの真実にめざめることから、苦悩の解決は始まります。仏教の経典はそのための教えです。決して死者供養のための呪文ではありません。この世に生まれることなく去っていった子を思い、経典を拝読して仏の心を聴き続け、自分の「いのち」の根本的なあり方を問い直すとき、喜びと深い懺悔がともに躍動する。真実の教えに自己を問い続けることによってのみ、人生の苦悩の根が断ち切られるのです。

 誰も自分の不幸を願う人はいません。しかし、幸せであろうとする今の私の「いのち」は、常に亡き子の「いのち」によって支えられているのです。亡き子が私を不幸におとしめることなど決してありません。「この子は私を導くために死んでくれた」と思えるほど、日々聴聞を重ねることが肝心です。