お墓の非常識

 お墓の中に身内以外のお骨を入れたり、仲が悪かった人同士を入れると喧嘩するという人がいます。もし本気でそのように考えるなら、浄土真宗として、非常識と言わねばなりません。

 故人は阿弥陀仏の願いによって仏になられています。仏さまというのは、いつでもどこでも私を含めた全ての命にはたらきかけ、命全体を照らし出して下さっている存在です。仏になられて全ての命を平等に願われている存在が喧嘩をすることはありえません。

 お墓はお骨を納めるものです。お骨は故人の体の一部で、故人が生きた証であり、大切な形見でもあります。そして大切な人のお骨であればある程、「死」という現実を実感させられます。しかし「死」という現実があるからこそ、その人の存在が、代役のきかない、かけがえのない存在であったのだと実感させられます。仏さまは、全ての命はかけがえのない存在であると叫びつづけて下さっています。亡き人を仏さまとして味わうことができるということは、一人の人が生きて亡くなっていかれた命全体が今なお、その「かけがえのない」という叫びの中に、どれほどの願いが込められているのかということを、この私に呼びかける存在として、確かめていけるということなのです。

 ところが長い時間の流れの中では、大切な人への思いも薄れてきます。お墓参りは、故人から味わった大きな命を今一度確かめ、また子孫に伝えていこうとするきっかけとなるものです。

 お墓はけっして故人の住み家ではありません。また、お骨の中に故人の魂が宿っているわけでもありません。なぜなら仏さまの願いは、今生きている私をはじめ、あらゆる命のまっただ中にはたらきかけて下さっているものだからです。その願いはお墓の中に収まりきるちっぽけなものではありません。

 故人が暑がるから水をかけてあげないといけないとか、好きな物を欲しがるからといってお酒や食べ物を供えないといけないという人もいますが、このような捉え方は、亡き人を仏さまの大きな命としてではなく、永遠に迷い続けるさみしい存在にしてしまっているのではないでしょうか。中には墓石がずれたり傷がついたら災いが起こるという人もいますが、もってのほかです。そんな風に、仏になられた亡き人を、悪者として災いをもたらす忌み嫌うものとして捉えていくことは、とんでもないことです。

 大切なのは「なき人は仏さま、仏さまはいつでもどこでも私の命を照らし続けておられる尊いお方」という思いを忘れないことです。それがお墓参りの心です。