お経の非常識


お経というと何を思い浮かべるでしょうか。『阿弥陀経』や『正信偈』と答える人が多いと思いますが、お経というと『般若心経』を思い出す人も多いようです。でも、私たちの浄土真宗には、『般若心経』のお勤めはありません。

【お経とは】

 お経とはお釈迦さまの教えを書きとめたものです。キリスト教に『聖書』、イスラム教に『コーラン』があるように、仏教の聖典が経典、略してお経です。

 厳密にいえば親鸞聖人がお書きくださった『正信偈』などはお経と呼べないわけですが、仏さまのみ教えについて書かれたものなので「お聖教(しょうぎょう)」として、お経と同じように大切にしているのです。

【『般若心経』とは】

 お経の中で最も有名な『般若心経』は、総字数262字というコンパクトさを誇っています。「般若」とは「仏の智慧」という意味です。「空」という大乗仏教の理想を説いた経典です。『般若心経』の「心」とは「精髄」を意味し、『大般若経』という600巻・総字数500万字という膨大な経典の要点を凝縮したものです。

 『般若心経』に出てくる「空」とは、むなしいとか、からっぽという意味ではなく、ものごとを差別することなくあるがままに見て、こだわりなく、おおらかに自由に生きることです。しかしこれは、言うのは簡単ですが、偽りなく実行するのは大変です。食事をしているときにくしゃみをして、口の中のものが飛び出したら誰もが「汚い」と思います。けれども、口の中にあるときはおいしい食べ物だったのです。もちろん、みそもくそも一緒というわけではありませんが、私たちは無意識のうちに必要以上にこだわってしまうのです。

 『般若心経』の内容(空)が体感でき、そのとおりに行動できる人が仏さまなのです。『般若心経』はすばらしいお経ですが、仏教は教えを頭で理解するだけではなく、行動にうつすことを教えます。教えを実践することが大事なのです。どんなにりっぱな教えでも、私の身の上ではたらかなければ意味がありません。

【 どの道を歩むのか】

 仏教をひとつの山にたとえて、「どの道も頂上へ行けるのだったら同じでしょう。どのお経をいただいてもいいのではないですか」と言う人がいます。確かに、遠くから山を眺めているのであれば、どの道を選んでもよさそうに見えますが、自分がその山に登ることになったら、どの道を選ぶのかは大問題です。中には険しすぎて遭難するような道もあるでしょう。『般若心経』を登山道にたとえるならば最も険しい道といえます。

 親鸞聖人までの仏教は、お釈迦さまの教えの中でどれが一番高級なのか、ということを追究した仏教でした。しかし、親鸞聖人はすべての人が救われていく教えが、お釈迦さまのお心にかなった最高のものだとお考えになりました。そして、親鸞聖人はお念仏について書いてある『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つのお経を私たちのために選び取って下さったのです。

 『般若心経』について勉強するのは決して悪いことではありません。しかし、なぜ親鸞聖人が私たちのために『般若心経』をお選びにならなかったのかは、しっかりと心にとどめておく必要があります。

【 写経】

 写経というと『般若心経』を書き写す人が多いようですが、真宗門徒が写経をしたくなったら『正信偈』や『阿弥陀経』を写経すればよいのです。写経をすると功徳があるといいますが、写経をしたから何かいいことがあるというわけではありません。お経が伝える中身が大切なのです。写経は私に都合の良い「取引き」の道具ではありません。

 『般若心経』はたいへん立派なお経です。しかし、阿弥陀さまやお浄土のことが出てきません。真宗のお勤めは、阿弥陀さまのお徳を讃え、帰るべき故郷であるお浄土を偲ぶために行うものですから、肝心な阿弥陀さまとお浄土が出てこないお経は読まないのです。浄土真宗で『般若心経』などをお勤めしない理由を尋ねられたら、このように答えます。