精進料理の非常識


 「 最近、いつ精進料理を食べましたか。」と聞かれて、すぐに答えられますか。浄土真宗には、昔から「お精進の日」という習慣があります。

 毎月16日の親鸞聖人のご命日をはじめ、肉親の命日、そして葬式や年回の仏事などには肉や魚・卵を食べずに必ず菜食で過ごしてきました。ところが、最近ではこのような風習を残している地方を除くと、精進料理を食べる機会が少なくなってきました。

 そもそも精進とは、大乗仏教の菩薩の実践行として説かれた六度(六波羅蜜)の中に挙げられています。その意味は、精力を込めてたゆまず努力して進むということです。本来は世俗を絶ち出家した後に、一途に宗教的実践に生きるという意味なのです。

 釈尊当時の出家者は、何ら生産手段を持たず、食べ物は托鉢で在家信者から施されていました。しかし中国・日本の雪深い山寺などでは、托鉢もままならず、寺内で自給自足するようになりました。そうすると、修行僧が肉・魚を料理する訳にはいきませんので、自ずと菜食料理になります。いのちを支える最小限の食材を選んで料理し、出家僧たちは、いのちの糧である料理を通じて、仏心を学んでいました。だから精進料理と呼ばれるのです。料理そのものが仏道修行の一環であったのです。

 私たち在家仏教者は、出家僧のような厳しい生活をしてはいません。しかし、だからこそ、なおのこと節目に行なう精進料理が大事になります。肉・魚を摂らず不殺生(殺さないこと)をすることで、日頃何気なくいただいている生き物のいのちとそれによって支えられる私のいのちに気づかされるということです。 特に、豊かで飽食が進んだ今日では「ご馳走」の意味すら失われてきています。健康ブームで菜食が見直されてはいますが、それは今の食生活が自然なあり方をしていない証左でもありましょう。私のいのちを支えるために他のいのちを食するという、食事の本来の意味を問い直す機会が、精進料理であります。

 親鸞聖人は、肉食を禁ずることはありませんでした。しかし、その流れを汲む私達は、少なくとも聖人のご命日は精進料理をいただくべきです。それは、聖人のご恩を思い、仏法に遇わせていただいた喜びをあらたにするためでもあります。また、その他の仏事のお斎にも精進料理を実践したいものです。とかく最近の法事は宴会のようになりがちですが、本来は亡き人を偲びつつ、自己のいのちを見つめ直し、また精進料理をいただきながら肉・魚を慎むことで、改めてその恵みを喜び感謝させていただく「仏事」であることを忘れたくないものです。

 犯罪の凶悪化、そして低年齢化が進み「いのちの教育」が叫ばれている現代、阿弥陀さまが「自分のいのちが尊いということと共に他のいのちも等しく尊いのだ」十方衆生(生きとし生けるもの)に常に呼びかけられていることを今こそ味わい、他のいのちを自己のいのちとしてみることのできる「心」を持つべきでしょう。そして、精進料理という素晴らしい「たしなみ」とその「心」が忘れられことのないように、また「いのちの教育」の一環としてもこの伝統を子や孫に受け継いでいきたいものです。