他力本願の非常識


 野球・サッカー・バレーボール、いろんなスポーツが盛んですが、優勝争いが佳境に入ると、よく耳にするのが「他力本願」という言葉。しかし、いつも浄土真宗の教えを侮辱するような非常識な使い方で、聞くたびにがっかりします。

 「自力優勝の術はもうなくなった。他力本願に頼るしか道はない」なんて発言が代表的な例。残り試合の関係で、いくら頑張って勝ち続けても、相手が負けるのを待つしかない、「他人まかせ」という意味でしょう。

 自力=自分の力、他力=他者の力という普通によく言われる解釈からの発想でしょうが、これが全くの間違い。下に「本願」がついている限り、断じて「他人まかせ」と受け取るべきものではないのであります。

 自力・他力を正しく理解するために、まず「力」=「願い」と受け取ってみましょう。それから、「自」=自分を含めて迷いの「人間」、「他」=迷いの他のもの、つまり「阿弥陀如来」とするとわかってきます。

 ◎自力=自分の願いをかなえようとする事。
 ◎他力=阿弥陀如来の願いを受け止める事。

 つまり自力とは自分の身勝手な願い事をかなえるために方策をたてることで、一般に誤用されている他力=他者の力は、困った時の神頼みも含めて、本当はこの自力の方に入ってくるものです。

 そして本当の他力の意味は、そうした身勝手で本当の生き方ができない私達にかけられた如来の願いのことなのです。ずっと迷いっぱなしの、救われようのないお前達だからこそ、私が救わねば誰が救おうか。どうぞこの私に救われて下さいという尊い願い。これこそが阿弥陀如来の本来の願い=本願なのです。

 けれども他力と本願の本当の意味を知らない人は、他力本願=「他者の力に私の願いをかけること」と、字義的に誤解しやすいのです。よって努力至上主義の現代日本人が、「そんな他力本願的なことではいかん。もっと自分で努力を」といったことを平気で言ってしまうわけですね。時には「自力本願」というとんでもない造語も飛び出す始末。

 「他力といふは如来の本願力なり」と親鸞聖人がお示しになったように、罪悪深重の凡夫(私)を救わんがための誓いに目覚め、他力本願に生かされてこそ、真に自立した人間となることができます。その積極的な生き方を「他人任せ」などと正反対に誤解されるのは全く残念なことです。

 優勝させたり、病気を直したり、大学に合格させたりなんて自分勝手な願いは、決して他力とは申しません、本当は。