友引の非常識


 あるご門徒の奥さんから、ご主人がなくなったとの知らせを受け、さっそく枕経にお参りをしました。このご夫婦は、人も羨むほど仲がよかっただけに、奥さんの悲しみようといったら、それはもう、いいようがありませんでした。ご主人の身体に取りすがって、「どうして私ひとりをおいて、あなただけ逝ってしまったの。私も一緒に連れていってほしかった。」と、嘆き悲しまれる姿に、一同胸をしめつけられる思いでした。枕経のおつとめがすみ、葬儀の日取りが相談されました。すると、やおら奥さんは席を立ち、カレンダーを手に戻られました。「明日は友引ですから、明後日にしましょう。だって友引の葬式は、いちばん親しい人を引くのでしょ。」「えっ?えっ!」

 先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六曜日は、中国起源ではありますが、むしろ日本で流行ったもののようです。中国の兵法にもとづくといわれますが、由来は定かでありません。仏教とは全く関係ありません。

 葬式の日に友引を避ける習慣は、いまだに根強く残っています。「良時・吉日をえらばない」のが仏教の心であるはずなのに、“友を引く”などという他愛もない語呂合わせの迷信に、なぜ私たちは惑わされるのでしょうか。

 上の事例は、笑うに笑えないような笑い話ですが、“一緒に連れていってほしい”という奥さんの気持ちには、決してウソ・偽りはなかったと思います。しかし、一方で彼女には“自分を引いてもらっては困る”という気持ちも同居していたのです。亡き人を想う心の奥底には、自分がいちばん可愛いという、自己愛の心がしっかりと根を張っています。愛するものの死を悲しむ表面の気持ちとは裏腹に、“我が身さえよければ”という氷よりも冷たい心が、私の心のどん底に巣くっているのです。実は、この自己愛の心こそが“友引”や“三月越しの四十九日”などの迷信を次々と生み出す元凶です。

 ですから、“私は友引など一切気にしません。私は教えを忠実に守っています。”というところにとどまっている限り、ほんとうには仏様の心をいただいたことにはなりません。もう一歩ふみこんで、私の心のどん底にデーンと居座る自己愛の心、我愛・我執の心に目を向けることが大切です。

 かくして浄土真宗で友引などの迷信を厳しく戒めるのは、迷信に心を奪われることによって、我愛、我執の固まりである私を見つめさせていただく智慧の眼を塞いでしまうことになるからです。わたしが如来様の心にあわせていただく絶好のご縁となるべく、愛する人の死が無意味になるからです。迷信にふりまわされ、それに縛られた生き方は、結局自分の尊い人生をそれに売りわたすことになるからです。