「天上天下唯我独尊」のこころ

青原淳信(広島仏教学院長・広島市中区真光寺前住職)

 「天上天下唯我独尊(天上天下に唯だ我のみ独り尊し)」これは、「花まつり」といえば思い出さずにおれないような、有名な釈尊誕生偈です。もちろん、単なる驕り高ぶりやウヌボレを表わす言葉ではなく、「この詩句は人間性の尊厳を言い表わしたものだと解する」(中村元著『仏教語大辞典』)べきでありましょう。

 しかし、このよく知られている文句は、偈の前半であります。『修行本起経』ではこの次に「三界皆苦我当安之」(三界はみな苦なり。我まさに之を安んずべし)と続きます。ほかの経典にみられる誕生偈では、少し異なる場合があって、それが自己の正覚であったり衆生の救済であったりしますが、この『修行本起経』は、自己の正覚と衆生の救済をともに含み、「唯我独尊」の理由・根拠を示していると考えられます。

 三界とは、欲界・色界・無色界で、我々の境界です。我々の毎日の生活は、欲に執われ、有形無形のさまざまなものに執われて、煩い悩んでいます。─三界皆苦─であります。即ち三界とは、種々のものに執われて真実を見失い、煩い悩み、苦しみと迷いを重ねていく境界であります。

 このような迷いの三界を「我まさに之を安んずべし」であります。煩い・悩み・苦しみとは、不安を感じて心が動き乱されてあることでありますから、それを安んずるとは、煩い・悩み・苦しみをなくするというよりも、それを超える、その中にあってもそれに執われないことであります。仏さまは、単に自身が迷いを超えるだけではなく、全ての迷えるものを「安んずる」ものであります。

 誰でも自分が一番大切です。だから、他人を押しのけてでも自分を主張し保とうとします。しかし、押しのけられた他人は、煩い・悩みが増すでしょう。これでは安んずることにはなりません。誰でも自分が一番大切なように、他人も自分が一番大切です。自分が真実に成り立つことは、他人をペシャンコにして自分を主張することではなく、他人を真に成り立たせることによって、自分が真に成り立つことです。叉、他人を真に成り立たせることは、自分をペシャンコにして他人をたてまつることではなく、自分を真に成り立たせることによって、他人を真に成り立たせることです。このような自分と他人のあり方を「自他不二」といいます。仏心とはまさに「自他不二」であり、その境界こそ、あらゆるものを「安んずる」ことができるのです。即ちあらゆるものを「安んずる」ことによって、仏は仏たり得るとといえましょう。

 「天上天下」とは全世界を意味します。それは時間的・空間的な全世界で、「イツデモ、ドコデモ」ということです。仏心とは、いつでもどこでも自他不二の心が持ち続けられてあることです。その全世界の中心としての自己─自他不二の仏心─において、「唯我独尊」と示されるのであります。つまり「いつでもどこでも」自分が大切なと同じように、あらゆる生きとし生けるものを大切にする─それが「天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之」のこころであります。そういう「私」の尊さは私1人だけでなく、すべての人、一人ひとりがそうであり、一人ひとりが尊いのです。『阿弥陀経』に「青色青光 白色白光」と説かれているのも、このことを意味しています。
 しかし、「私にそう思えといわれてもムリだ」と言われるかもしれません。「あなたに、私に、そう思え」というのではなく、仏さまが、私を、あなたを、そのように思っていて下さる─そういう仏心に包み込まれている私を知らされることであり、それが「本願を聞く」ということです。そう思えぬままに「唯我独尊」とされている私であります。

(1995.4)