現在・未来・過去

後藤寿邦(本願寺派宗会議員・広島市南区光徳寺住職)


 仏教のおしえは我われにとって、かなり難しい面がある。その理由の一つとして、仏教(宗教)は我われの行為を過去・現在・未来によって説明する。このことが仏教のおしえを複雑にし、誤解を招くことが多いのかも知れない。

 平生、我われはよっぽどのことがない限り日常の生活の中で過去を見つめ、未来を見すえながら、現在という今を生きていくことはしない。しかし仏教のおしえはそのことを説くのである。

 かって、スピルバーグの「バック・トゥ・ザ・フューチャ−」という、次元転位装置を付けた車が三十年前の世界に戻るという、バックミラ−を見ながら過去に前進するような映画があった。過去を知りたいと思うのは、昔から人間の願望かも知れない。ある人が、バルセロナ大学の古典学者に「バック・トゥ・ザ・フュ−チャ−」について尋ねたところ、ホメロスのオデュッセイアを読むように勧められたという。古代ギリシャでは過去と現代は前方にあり、我われが見ることのできない未来は背後にあると考えられていた。人間は背中から未来に入っていく、車を運転する人がひたすらバックミラ−を見ながら、前方に進んでいくようなものである。

 政治家佐藤栄作氏に「今日は明日の前日」という著書がある。明日の前日というその明日はどうなるのか。政治や経済にとっても重要なテ−マであるし、昨今の社会状況を見れば我われも無関心ではおれない。

 ところで、我われは過去といえば生まれる前のこと(前世)、現在は生まれてから死ぬまで(一生涯)、未来は死んだその先のこと(死後)と思いがちである。それを時間的に考えてみれば、昨年は過去、今年は現在、明年は未来。先月は過去、今月は現在、来月は未来。昨日は過去、今日は現在、明日は未来。一時間前は過去、一時間先は未来。一秒前は過去、一秒先は未来。このように考えれば、今の一瞬が現在であり、その一瞬、いや一息一息の行為が実は問われ、また、その行為が確実に我われの人格となって形成されると仏教は説くのである。その人間の行為が問われ、つきつめていかれたのが親鸞聖人である。

 人間は愛欲によって執われ(過去)、その執われによって今の存在(現在)があり、その存在の中に一瞬一瞬の行為によって新たな人格が生れる(未来)。

 生まれる(未来)ということは常に生れつゝある(無常・無我・苦)ということであり、そこに仏教が人間の行為の大切さを説くゆえんがある。

 我われも生まれつゝあり、やがてお浄土へ生まれたいものである。

(1998.1)