人生の宝もの

乗元善昭(広島市南区善教寺住職)


 小学4年生の息子に、「ぼくの宝ものは何かな。」と聞くと、「ぼくの宝ものはね。おかあさん、おとうさん、友だち、ラブ(犬の名前)でしょ。それから、グローブと自転車だよ。」という答えが返って来ました。横に居た高校生の娘に同じことを尋ねると、少し考えて「私かな。」と答えました。

 人の成長過程によって大切に思う宝ものは変わって行きます。子供の頃は、おもちゃや一緒に遊ぶ友だちが宝ものです。青少年期になると友だちや家族も大切だけれど、自分自身が一番大切な宝ものであるということが分かって来ます。社会に出るとその上に仕事・会社・職場の同僚といった宝ものが増えて来ます。結婚すれば、夫・子供・家庭という大切な宝ものができます。

 子供の時のおもちゃ箱のように、私という箱の中に次々と宝ものが増え続けて行きます。それが段々と老年期に近づくに従って、私という箱の中から宝ものが一つ消え、また一つ消えて行くというようになります。最後は一番大切な私自身も消えて行くのです。

 20年程前に、あるご門徒のおばあさんからお聞きした話です。

 若い頃、主人の赴任先で借家住まいをしていた時、隣の大家の奥さんから教えられたことが忘れられません。忘れられないどころか、その言葉がこの私を育てて下さったのです。それは、「若い間は色々なものが宝ものに見えるでしょうが、この世の中のものはみんな離れ離れになって行くものばかりですからね。お念仏だけはそんなことのない、またとない宝ものですから大切にしなさいよ。」と教えて下さった言葉です。その奥さんは近くのお寺で法座が開かれる度に、「若いうちから、聞かせて貰いなさい。お念仏はまたとない宝ものですからね。」と誘って下さいました。私にとってはまたとない尊いご縁でした。この頃、『歎異抄』の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とのお言葉をしみじみと頂いています。

 本当にお念仏はまたとない宝ものですね、と話し終えられたおばあさんの目にはうっすらと涙が光っていました。

(1998.10)