称名念仏ということ

岡部哲信(広島市南区報徳寺住職)


 ご本山というと、阿弥陀堂や、御影堂の建物の前の、広い白州の境内がイメージされます。真ん中に大きな銀杏の木がありますが、歩くとザックザックと音がして、アスファルトやコンクリートの道とは違う感覚が忘れられないものです。

 ご本山(本願寺)は、一宗弘教の根本道場であり、全ての寺院及び教会の本寺です。寺院は、浄土真宗の教義を弘め、法要儀式を行い、諸々の教化活動や必要な業務及び事業を運営し、公共の福祉に寄与する事を目的にしています。因みに、法要とは「仏祖を礼拝供養し、経典を読誦し、仏徳を讃嘆して、報恩の至誠を表す行事」、儀式とは「仏前において行う法要以外の行事」だとされています。儀礼とは敬意の行いというものです。

 浄土真宗の念仏は称名念仏であり、それは何時でも何処においてでも、称名念仏するところで阿弥陀様とであっているというものです。その称名念仏が法要や儀式の時だけのお念仏、つまりは、お寺やお仏壇の阿弥陀如来像の前だけでのお念仏になっていると、やがては形骸化してしまいます。称名念仏するとは、目の前に阿弥陀如来像がなくても、お念仏をするということでしょう。称名念仏する時は、私という小さな存在が阿弥陀様とであっている事によって、無限の世界における確かな存在の一つとなり、小さな私もその世界と一体となるといえるものでもありましょう。そうした意味で、たとえ自分が小さくて愚かと思えても、無限の世界の一つとしてそれを蔑ろにせずに、真剣にその存在の意味というものを見つめることができるというものです。そこに又、御同朋・御同行としての生き方があるというものでしょう。

 ご本山といえば又、『護法愛山』という言葉があります。法を護り、本山を思う気持ちということと同時に、「私は法(阿弥陀如来様)に護られ、本山(教団)から思われている」というものでしょう。近代の自我の主張は、「ひとは一人として尊い」として人権の尊重ならびに豊かな社会建設の功績はありますが、個人の主張は人を尊大化し、利己主義ともなります。護られている、思われてる、生かされていると言えば、主体性がないように見えますが、それは利己主義の克服ということでもあり、仏教の一面をよく示していると思います。自分という自我を認めつつ真実にであうとき、何時でも何処でも、称名念仏ということでしょう。

(1996.1)