原爆被爆50回忌を迎えて

諏訪了我(広島市中区浄宝寺住職)

 昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、たくさんの人々が亡くなられました。今年はその50回忌を迎えます。去る6月11日から3日間、ご門主ご親修により広島別院で全戦没者追悼法要・原爆50回忌法要が営まれました。

 原爆が投下されるまで、浄宝寺は旧中島本町(現在の平和公園内の慰霊碑の西約10メートル)にあり、いわば爆心地でした。私は当時小学校6年生で、昭和20年4月、桜の時期に学校から集団疎開で双三郡三良坂町に疎開しておりましたので生命を得ましたが、両親と姉が亡くなりました。

 従姉が疎開先へ私を迎えに来てくれましたが、広島駅に降り立って、変わりはてた広島市の姿に茫然としたのは、原爆投下後1ヶ月余り過ぎた9月16日でした。赤茶けた焼け野原の向こうに、安芸の小富士の似ノ島だけが、前と変わらぬ姿でよく見えました。駅前から電車道に沿って歩き、相生橋を経て浄宝寺跡に立ち、これから先いったいどうなるのかと、うつろな思いであたりを見回した時の感慨は今も忘れることはできません。早いもので、あれから50年がたちました。
父と母は原爆が投下された時、寺にいたかどうかははっきりしません。いわゆる行方不明です。姉は安芸女学校4年生で、学徒動員として天満町の東洋製罐で働いていましたが、被爆により建物の下敷になって亡くなりました。姉のことについては、一緒に働いていた友達が今も元気でおられ、その時の様子を聞きました。

 疎開した荷物の中に、母が短冊に書いた次のような句がありました。

  生きのびて ともにまた見む 桜の春

 お念仏を喜ばせていただくなかに、凡情としての悲しみを超えて、先だった方々と会わせていただく身に育てられたことは何よりでした。

(1994.7)