人間性について

諏訪了我(本願寺派教誨師・広島市中区浄宝寺住職)


 これまで人間の歴史において、さまざまな犯罪が繰り返されてきましたが、特に最近は、動機がつかみにくい短絡的な、しかも残忍な犯罪が多く、また低年齢層の非行が増えていることも憂慮されるところです。

 そうした事件が起きた時、しかるべき人がいろいろとコメントを述べられるのですが、その場合、よく「人間性が欠けている」とか「人間性を豊かにしなければならない」と言われます。もっともな意見なのですが、それでは、欠けているといい、豊かにせねばならぬという「人間性」とは何かと、一歩突っ込んで尋ねてみると、これはなかなかむつかしい問題です。『広辞苑』(岩波書店)によると「人間性」とは「人間としての本性。人間らしさ」と示されています。そうすると犬や猫など他の生きものとは違った人間独特のものということで、結局は「人間とは何か」を問うていかねばなりません。

 私は教誨師として刑務所や拘置場に入っている人と面接する機会があります。ある人と面接した時に、この人間性ということに話が及びました。

 彼「私も人間性について考えたことがあります。」

 私「どうして人間性について考えたの?」

 彼「私はとんでもない罪を犯しました。しかし私はこれまで自分は人間だと思っていたのですが、世間の人達は私のような犯罪者を“人でなしだ”と決めつけます。それでは私は何なのだろうと疑問を持ったのです。」

 私「なるほど。それで君はどのように考えたの?」

 彼「世間の人達は、人間は本来善を思考し、善いことを実現するために努力するものである。それなのに彼は悪いことをした。だから人間ではない、という論理だと思います。しかし、確かに善を思考し、その実現のために努力することもありますが、反面、自分ではどうしようもない、ドロッとしたおぞましいものも持っているのではないでしょうか。その両面を持っていることを見失い、一方だけを見ていたのでは、本当の人間を把握したとは言えないのではないでしょうか。」

 彼の言葉を通して、自分を是とし他を非とする人間の独善性を指摘された思いでした。犬や猫とは違った人間独特のものが人間性だと聞かされ、私達は教養を高め、芸術的感性を磨き、すべてのものに対する思いやりの心を持ち...と、いろいろと人間らしいと思われる要素を挙げて、そういう人間にならねばならぬと考えます。それはそれで大切なことだと思いますが、今、仏法を聞いて知らされる人間性と言うのは、知的なものを積み上げていくというよりも、むしろ自分の内を掘り下げられ、ありのままの偽らざる姿に気づかされるということに原点があるのです。浅ましいことを浅ましいと気づかされると同時に、この私の生命が大きな恵みに支えられ、生かされていることに目を開かせていただくのです。そこに「すみません」と「ありがとうございます」という心が恵まれるのです。この心こそ、人間のみが持ち得る心ではないでしょうか。

(1996.10)