本願力

高橋哲了(広島市西区妙蓮寺住職)


 ある春先の日曜日、本堂での御門徒の法事が勤まり、皆さんが帰られた後のことです。開け放っておいたガラス戸を閉め終わって庫裏へ下がろうとして、ふっと気が付くと一匹の蜂が本堂の中を飛び回っておりました。

 仏前の花の蜜に誘われて本堂の中に入ってきたのでしょうが、ガラス戸を閉めきられた為に外に出ることが出来なくなってしまったようです。

 しばらくその蜂の様子を眺めていますと、まるで体当たりをするように閉めきられたガラス戸にぶっつかっては、はねかえされております。はねかえされるとしばらくあたりを飛び回って又同じガラス戸にぶっつかっては、同じようにはねかえされております。いつまでたっても、いったりきたりの繰り返しです。

 このままでは死んでしまうとおもい、蜂がぶっつかっているとなりのガラス戸を手前に引いて開けてやりました。さあこれで外へ出て行くであろうとみておりましたが、蜂はとなりの戸が開いたことに気がつかないようです。

 あいかわらず自分が体当たりをくりかえしている同じガラス戸へぶっつかっては、はねかえされるをくりかえしております。ちょっと横をみれば戸は開いているのに目の前のことばかりで横に目をやる余裕もないのであろうとあわれに思いながら、そのままにしておくわけにもゆかず庫裏から新聞紙をとってきて、蜂がガラス戸にぶっつかったタイミングをみはからって開いた新聞紙をよこからあてがうように誘導してやるとようやく外に飛び出してゆきました。

 やれやれと思いながらもとのように戸をしめきり庫裏へ下がろうと如来様の方へ振り返ったとき、如来様から見られておる私の姿は、そのまま私が見ておった蜂の姿と一緒になっているのではなかったかと、きづかされたことであります。

 親鸞聖人はその姿を『化身土巻』に「悲しきかな垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに出離その後なし、みずから流転輪廻を渡るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」(『浄土真宗聖典』412頁)とお示しくださいました。

 その私に「その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもって本意とす」(『御文章』二帖七通)と一念帰命の信をお勧め下さった蓮如上人のお言葉をありがたく頂いたことであります。

(1998.7)