危険なこころみ

武田勝道(広島市西区教西寺住職)


 パソコン(パーソナルコンピューター)は、昨年から今年にかけ、劇的に値下がりしました。このパソコンの値段の低下と処理能力の格段の向上により、マルチメディア社会が実現することになりました。マルチメディア(複合媒体)とは、文字・映像・音などいろいろな情報を同時に組み合わせて使う手段で、パソコンがその中核機器です。

 マルチメディア技術の進歩により、現実との区別が困難なぐらいの実に精巧な電子的環境が作られています。こうした現実とまったく区別のつかない擬似環境が、バーチャル・リアリティー(仮想現実・人工現実・虚現実)といわれているものです。

 このような状況で、ビデオによる反復視聴やリセットボタン(最初からやり直すためのスイッチ)を押すことによるテレビゲームのやり直しにより時間感覚が歪み、現在未来の境界があいまいになったり、生と死の間を自由に往来できるような感覚を有するようになりました。そして身体的な現実体験なしに仮想空間にはまることによる身体感覚の喪失も、もたらしました。

 今年の春以来、私たちは、オウム真理教について、大量の文字・映像の情報を得ました。ポアという言葉も有名になりました。過激な身体性重視も、テレビの修行風景を見て知りました。オウムは、感覚遮断・情報遮断により信者の人間性を剥奪しました。

 マルチメディアは、パソコンの機能向上と価格低下により、文字どおりパーソナル化(個人化)されました。文字をよむ能力をリテラシーといいますが、映像のリテラシー、情報のリテラシーも、基本的文法の学習が必要です。学習抜きのメディアの個人化は、とんでもない狂ったリテラシーを身につける危険性が著しく大きいことを意味します。メディアの個人化は、個人の主体性の確立のチャンスであると同時に、その喪失のリスクでもあります。オウムは、外的な物理的薬物的遮断により洗脳しました。メディアの個人化は、他人の手を借りず、いわば無意識の自己洗脳に陥ります。私たちの教団は、映像などのメディアリテラシーの学習機会を提供するために、早急に対応しなければなりません。

 近時、私たちの宗門では、「現場の教学(教義)」を旗じるしに、‘真宗ポストモダン’が主張されています。社会科学では、ポストモダン(脱近代あるいは反近代主義)は、バブル経済崩壊とともに消えた(佐伯啓思)ともいわれていますが、‘真宗ポストモダン’は、現在も強力に主張されています。

‘真宗ポストモダン’は、儀礼(=荘厳)を強調します。なぜ、儀礼を強調するのでしょうか。精神は仮想現実に飲み込めても、身体が残るからです。人間全体を取り込むためには、身体をどうしても放置するわけにはいかないのです。おまけに、身体感覚は揺らいでいます。オウムの身体性重視は、ここにその理由があるのです。儀礼は、身体を仮想に取り込もうとする営みなのです。‘真宗ポストモダン’とオウムの身体に対する同じ態度は、両者が通底する証左です。ポストモダンという甘い言葉によって、私たちの真宗の教えが、オウム真理教の轍を踏む誤りをおかしてはなりません。

 個の溶解によって、人は、「夢のような安逸」(大澤真幸)に浸ることができます。しかし、それは、人間性を喪失した昆虫の世界です。‘真宗ポストモダン’は、個を共同体(人の集合)に溶解させるこころみですが、私は、非常に危険なものをそこに感じます。個の確立は、宗教・文化・学問の結晶、人間の歴史、智慧そのものなのです。

 お釈迦様の言葉に、「犀の角のようにただ独り歩め」とあります。私が10代から好んでいる言葉です。私は、硬派に個を追求していきたい。釈尊と親鸞聖人のスタンスの本籍は、そこにあるのですから。

(1995.9)