つれづれエッセイ

つれづれなるままに、日暮らしの中での思いをつづったエッセイ

※『おみじょ』本誌の「編集後記」からの転載です。

1994.07

1994.10

1995.07

1995.10

1996.10

1997.01

1997.04

1997.07

1997.10

1998.01

1998.04

1998.07

1998.10

1999.01

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1999.07

1999.10

2000.01

2000.04

2000.07

2000.10

2001.01

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2003.01

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2004.01

2004.04

2004.07

2004.10

2005.01

2005.04


(2002.7)

 新郎○○氏、新婦○○さんの婚儀を仏前に挙げるにあたり両人の誓いを求めます。
・・・(中略)・・・阿弥陀如来のお慈悲を喜び明るくなごやかに人生を送るよう念じます。

 これは、もうおわかりと思いますが、教会でも、神社の結婚式でもありません、仏前結婚式での誓いの言葉です。

 先日私は、縁あってご門徒の仏前結婚式の司婚を勤めさせて頂きました。式の前日会場であるホテルの担当者との打ち合わせの際、仏式でされたことありますかと質問したところほとんどないとのこと、そういえば以前、友人にお寺でも結婚式をやるよと言うと、不思議そうな顔をしていたことが思い出されます。

 お寺にいだくイメージとは、どうやら亡くなった人のためのもので、式とつく儀式は葬式と感じられる方が多いようです。浄土真宗で行う儀式には、初参式・成人式・結婚式などがあり、阿弥陀如来様のお慈悲を喜び、新しい門出を仏前に誓う大切な儀式です。阿弥陀如来様のおはたらきとは、生きている私たちにはたらいて下さる教えです。

 決して、イメージや憧れで大切な儀式を行うのではなく、浄土真宗の門徒である以上は、本来の姿で儀式を行ってほしいものです。


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(2002.4)

 ある90歳近いご老人が、数年ぶりに親戚の法事で、郷里に帰られた時のこと。てっきり懐かしい地元で有意義な時を過ごされたものとばかり思っていたが、「あんな言い知れぬ孤独感を味わうとは思わなかった」という。
 その法事には、もはやご老人が郷里に住んでいた時のことを知る人はいなかったのだ。いくら丁寧に上座に席が用意されてあったとしても、これまで隣に座っていたはずの、共に生きた人、ほんとの意味で自分を知る人がいない。その時の表情が忘れられない。

 青年僧侶春秋会で「別れ」をテーマに全国から公募した体験談集。30代以下が過半数を越えた全480通のうち死別が3分の2を占め、その中で故人を語るとき、浄土や天国といった場所を表す言葉を用いたものはごくわずかだったという。
 そして80%がそのような表現を用いずに故人を語り、あったとしても自分の「心の中」と表現していたという。しかしそれらは決して無機質なものではなく、故人との関係の深さを感じさせる温かいものだった。

 死に対する概念は、現在の自分の生を浮き彫りにする。核家族化が進み、死は直接の親子の間でしか現実味がなくなってきている今。その中では「土」や「国」といった、多くの人々の存在の上に成り立つ言葉も現実味がないのかもしれない。
 しかし生死の問題は、自らが創造したわけではない不可思議な生の生い立ちからして、無始以来脈々と流れてきた無数の繋がりを無視しては成り立たない。

 それぞれの考え方の自由という言葉の響きはいいが、一人の一生だけでは解決しえない問題であるはずの生死までをも、有限でおぼつかない自己の心の中に抱え込まなければならないのか。
 ご老人の言葉が深く沈み込む。その量り知れぬ深淵を確かめ合い無数の生死をくぐりぬけてきた流れを無視して、いったいどこまでその孤独に耐えうることができるのか。(長)

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(2002.1)

 ある外国人の方に「日本人は新年よりも年末の方が盛り上がるんですね」と言われました。確かに師走は連日忘年会でどんちゃん騒ぎをするのに、お正月はむしろ家族で静かに迎えることが多いですね。中国のように爆竹を鳴らして大騒ぎする派手な正月(特に旧正月)はありません。これは年末年始を迎える心が違うのでしょう。年末には一年間の垢を落とし、その年のいやなことはすべて忘れて水に流し、新たな年に心機一転生まれ変わろうとする。だから正月は神妙で厳粛に迎えられるのでしょうか。

 昔の数え年は、新年を迎えたときに1つ年を取るとされていたと聞きます。ある意味で、正月は誕生日のお祝いでもあったといえます。「あけましておめでとう」は「お誕生日おめでとう」という意味で、お互いに誕生を祝いあうわけです。お年玉はさしずめ誕生日プレゼントということになりましょう。去年までとは違った新しい自分が生まれた、あるいは生まれたい。だから「おめでとう」と門出を祝うのです。

 この「おめでとう」について、親鸞聖人はまな弟子の明法房の往生の知らせを受けたとき、「めでたきことにて候へ」とおっしゃられました。人が死んで「めでたい」と言われるのです。ちょっと奇異に見えますが、親しい人の死を喜ぶ人はどこにもいません。聖人は明法房が「往生」されたことを喜ばれたのです。死の恐怖におののき失意の中に死んだのではなく、念仏の信心を賜わって往生を遂げることができた。これほど「めでたい」ことはないのです。

 一つひとつ重ねる年も、往生の安心につながってこそ初めて「めでたい」と言えるのではないでしょうか。去年までのいやな自分を拭い去ろうとしても拭いきれるものではありません。去年も今年も変わりばえのしない自分がいて、それでも確実に往生への道を歩んでいる。実にめでたいことです。(青)

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(2001.10)

 あるお寺でこんなことがあったそうです。33歳の若さで亡くなった青年の葬儀。この青年の兄弟は、4人とも皆、このお寺の日曜学校の卒業生ということです。ご住職も可愛い教え子の早すぎる死に、涙ながらに悲しい儀式を修められました。葬儀が終わって、親族を代表して、すぐ上のお姉さんによるお別れの言葉が始まりました。原稿も持たず、涙でつまりつまりしながら思い出を語ります。

 あれやこれや語るうち、「・・・。いっしょにこのお寺にも来たよね。ー仏の子はすなおにみ教えを聞きます・仏の子は必ず約束を守ります・仏の子はいつも本当のことを言います・仏の子はにこにこ仕事をいたします・仏の子はやさしい心を忘れませんー」この5つの言葉は『仏の子のちかい』といって、全国のお寺の日曜学校など、子どもの集いで唱和されているものです。長く、このお寺に通って、大人になっても覚えていたのでしょう。

 そして、あいさつの締めくくりに彼女はこう言いました。「ノブちゃん、仏さまの国でにこにこ仕事をしてください。さようなら。』かつて聞いたことがないようなお別れの言葉に、ご住職を始め参列の者は、皆一瞬、耳を疑うほどの衝撃を受けました。

 仏さまの国、極楽浄土は、決して安らかに眠る場所ではなく、如来の片腕となって、如来の願いを私たちに届けるお仕事をするところなのです。お姉さんはそのことを、はっきりとわかっていたのでしょう。悲しみの中で、しかし無常の厳しさを呪うわけでもなく、むしろ喜びにも似た表現で別れを語る。ノブちゃんの初仕事は、お姉さんに届き、参列の全て
の方の心に届いたのです。

 アメリカのテロ事件を筆頭に、国内外で、生命の尊厳をそこなう痛ましい事件が多発しています。その際、よく言われるのは、被害者の心情を考慮するということです。反撃や重刑を加害者に科して、亡くなった方の心に沿うという考えです。被害者の無念を晴らす、報復を是とするものです。

 色々な考えがあるでしょうが、故人の思いを自分が本当に知ることができるものでしょうか?仏教者は、凡夫の自覚深く、仏法に尋ねる態度を持ちたいものです。故人の願いを、自分勝手にねじまげて、憂さ晴らしの動機にしないように。今、にこにこ仕事をしているあの人に、またお浄土で会えたとき、にこにこ誉めてもらえるように。(登)

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(2001.7)

 宗教を持っている人に、この宗教を信じたらどうですか…と勧誘するのは、あなたの信じている宗教はよくない悪い宗教だから、そんなもの捨ててしまいなさい、と言っているのと同じです。

 たとえば、結婚して妻のある男性に、あなたの妻はよくない、私のすすめるこの女性と結婚しなさい、と押しつけたら、たいていの人は怒ります。生き方の指針をしめす宗教を持っていることが、人間の人間たる所以です。宗教の勧誘というものは基本的におかしいのです。

 ところが、日本人はたいていが宗教を持っていません。それで平気で、宗教の押し売りがなされるのです。結婚している人がごくわずかであれば、誰もが独身であることを前提にして、人にお見合いをすすめることになります。それと同じことです。宗教の勧誘に対しては、「私は自分の宗教を持っています。あなたはあなたの宗教を大事になさってください。私は私の宗教を大事にします」と応ずることです。

 宗教者とは、他人が信じている宗教に対して、その人がその宗教を信じることを尊重できる人です。それができないで、自分の宗教を押しつけようとする人は宗教者の資格がありません。(松)

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(2001.4)

 桜のつぼみがふくらみ始めると、わが幼稚園では寂しさと喜びが交錯する。初めての集団生活の中で様々な豊かな体験をし、心身ともに大きく成長していったこどもたち。卒園していくこどもの成長の喜びと巣立っていくことへの寂しさ。複雑な心境である。

 今、「心の教育」「ゆとり」が声高らかに叫ばれているが、親にとっても同様のことが言えるのではなかろうか。幼児虐待等の家庭内での悲しい悲劇。子育ては確かに大変で根気のいることであろう。しかし、それ以上にこどもより得る喜びも大きいはずである。あせらずゆとりを持って長い目でこども達を見守ってあげて欲しいものである。

 先日、園内でA君とB君が相撲をしていてA君の手にひびがはいるケガをしてしまった。当然B君も故意では無いが大変な事をしてしまったという不安に襲われていたと言う。A君のケガも無事治り、ホッとしているところへさらに私は心洗われる話を聞いた。B君が園の講堂にある仏さまに「A君のケガが早く治るように」と手を合わせていたというのである。祈るのはどうかと言う前に、私はB君の手を合わせるそのやさしい姿に、自分自身忘れかけていた何かを思い出させられたように思う。B君の心には確かに仏さまがおられる、そう思う。

 その様々な純粋な心に触れさせてくれたこどもたちに感謝をしつつ、このまま成長していってくれることを願う。そしてまた、新しい出遇いが終ることなく続いていく。(龍)

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(2001.1)

 ついに21世紀に突入した。巷はこの新世紀に期待一杯である。メディアにおいては、不況と凶悪犯罪に揺れた「世紀末」も去り、明るい未来が託せる新世紀を歓迎するといったムード。勿論経済的な効果を目論んだものであろうが、少々騒ぎ過ぎの感が。

 企業のアンケート調査では、概して、20世紀のイメージは汚れて暗い激動の時代、21世紀のそれは夢のある明るい時代という結果が出ている。混迷の世界を、一度リセットしてやり直したいという思いが見え隠れする。毎年、年頭に当たってくり返す「今年こそは」というあれである。メディアも「新世紀こそは」とやっているわけだ。しかし、たかだか一日過ぎただけで、何もかも好転するのなら苦労はない。

 そもそも西暦と言うのはイエス・キリストの生誕年を紀元としているのだから、仏教者には相応しくない。実際タイなどの仏教国では、釈尊の没年を紀元とする仏暦が主に使われている。これには意義があって、仏暦(つまり釈尊の入滅後)1500年で世は末法という濁り切った時代となり、1万年続くという。エンドレスの「世紀末」だ。ミレニアムでリセットなど虫が良すぎる。

 今は仏暦では26世紀だから、末法まっただ中。その末法のための本願の真実。念仏者は浄土という輝ける未来をもらい、混迷の世に生まれた意味と喜びを頂くのである。(登)

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(2000.10)

 最近よくいわれる「地球にやさしい」とはどういうことをいうのだろうか。私たちは自然環境を口にするとき、その意味するところは、動物・植物を含めたすべての「生き物のための環境」の範囲を超えていない。

 しかし、地球という惑星の本質は、結局のところマグマと岩石の塊ではなかろうか。私たち「生き物」はこの岩石の塊の上に言うなれば寄生しているのである。ところが地震・噴火・台風など地球の本来的活動に対しては、生き物は全く無力である。地球の生き物は、地球の環境に完全には適応しているとは言いがたいのである。

 ひょっとすると、私たちの目から見たら美しく映る森の緑も、地球からすればミカンについた青カビのように、ハタ迷惑な存在に過ぎないのかも知れない。地球のあるべき本来的な姿とは、月の世界のように草も木もない生き物の全く住まない静寂な世界なのかも知れない。地球にやさしいとは、我々生き物がすべて滅亡し去ってしまうことなのかも知れない。

 仏教ではエゴ(我執)を離れよと教える。人間としてのエゴを離れて、自然環境を保全し他の生き物のいのちを守ろうとしたとしても、生き物の観点を離れないかぎりは結局は生き物としてのエゴなのではないか。ましてや「環境破壊が人間の存亡に関わる」という視点ならばなおさらである。エゴを離れることは極めて難しい。しかし同時にそれが私たち「生き物」が生きるという真の姿でもあろう。(青)

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(2000.7)

 最近、気のせいかもしれないが、外で遊んでいる子供たちの姿をあまり見ないような気がする。子供たちにどこで遊んでるのかと聞くと、ファミコン・パソコンと答えが返ってくる。

 時代が変われば、遊び方も変わるようだ。私の子供の頃は、学校から帰るなり友達とよく遊びに出ていた。ケンカもしたし殴り合いになることもあった。今では考えられないことだが、小・中・高校時代、先生に殴られたこともあった。しかし、そのお陰で痛み・いたわりの気持ちが自然と身に付いたようだ。

 新聞を見ると毎日のように少年犯罪の記事が載っている。また、あるテレビ番組で「オヤジ狩り」をしたことのある中学生にインタビューをしていたが、少年曰く、人を刺すことに対して何の抵抗もないという。何故そこまで出来るのか理解に苦しむ。

 現在のゲーム機はどんどんリアルになり、「殴る」・「殺す」といった種類のものが多くあり、パソコンでも多くの情報、色々なものが簡単に購入できる。その中で生きている子供たちは、満たされた環境と引換に、人間として学ばなければならない大切なことを、忘れているような気がしてならない。(潤)

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(2000.4)

 「花の色はうつりにけりな いたずらに……」。現代風に訳すと「あら…このお花、色あせてしまって…私もそうなってしまうの?」なんだそうだ。ある主婦の手になる訳だが、これを知って、花見のもつ本来の意義に立ち戻った気がした。

 つまり花見とは、花に自分を見ること。大袈裟に言えば、花を鏡に自らの姿を知るということだ。色あせ、散っていく花に、老苦、死苦の無常から離れがたき自分を知らされる。花よりだんご、お酒、はたまたカラオケと、どんちゃん騒ぎは本当の目的を忘れている。

 この花見とか月見とかいった行為(文化)は、東洋的なもの、もっと言えば日本に固有のものだと聞いたことがある。一昔前に、アメリカ在住の日本人が、屋外で仲秋の名月を楽しんでいたところ、不審者として警察に逮捕される事件が頻発したとか。月見の習慣と釈明したが、一向に理解されなかったらしい。

 本尊に手を合わせる尊い行為も、現代人は時に偶像崇拝と批判する。おそらくこの花見や月見の深い意味と通じるものがあるのに、花見同様、格好ばかりの礼拝となっているからだろう。仏前は、私の本当の姿を写し出して下さる鏡として、尊ぶとともに、楽しめるようになりたいものだ。(登)

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(2000.1)

 オリックスのイチローと西武の松坂の対決は、昨年のパリーク゛いや、野球界における最高の見ものとなったのではなかろうか。

 先日、そんな、二人がテレビの中でそれぞれの思いを語っていた。その中で、イチローは「松坂は自分がバッターボックスの中で、初めてキャッチャーとのかけひきで勝負するのではなく、一対一の真っ向勝負ができる」と話していた。

 「真摯に向き合う姿勢と勇気」これこそが現代の我々に最も欠けているものではなかろうか。我々は、様々な状況下で一対一の状況に置かれる。無論中には、背をむけたくなることもある。しかし、よく考えれば苦も楽も勇気も全て自らが作り出すものであり、それに私は惑わされているのです。そんな時こそ自分に問い掛けてみよう。ここで、逃げるかぶつかるか。投げかけられたものに対して、真摯にむきあえるか。苦は逃げれば逃げるほど大きくなってまた私に降り注いできます。

 亡くなったカープの津田投手は言っていました。「弱気は最大の敵である」と。さあ、苦は歓喜を知らさせていただく大きなご縁として迎えいれましょう。そして、垣間見る煩悩ある愉快な私を楽しみませんか。(龍)

 仏身円満・無背相

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(1999.10)

 今頃の勉強って、何のためにしているのでしょうか。工学部の学生が物理を理解できず、経済学部の学生が数学を理解できない。これが「教育」というのであれば、教えてもいないし育ってもいません。本来、教えるべき科目を減らし、時間も減らしていく。そこには自主性とか個性ののばし方があるだけで、何でも許される自由だけが存在し、今、やるべき負担まで減らされる現実を見てしまう。多様な選択肢の中での勉強が、等価交換され価値を下げる状態になってしまう。それはデジタル人間が増え、パソコン教育によって思考力のない少年少女が増加するだけである。ここで必要なのは、鉛筆を持って自ら文字を書く存在であると確信いたします。機械に支配されるのではなくて、人間の能力の不足分を機械が補ってくれる。これこそが、人間らしく生かされることと判断いたします。

 ある歌詞の一節

  人として 人と出会い
  人として 人に迷い
  人として 人に傷つき
  人として 人と離れて
  それでも 人しか 愛せない

 一生涯(一期)は、出会いと別れの繰り返しであります。自分の人生であっても、自分の思うままに生きられない現実(虚仮)与えられる(恵み)人生に、仏(真実)との出会い、たいせつにいたしましょう。(中)

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(1999.7)

 .最近、喪中の貼紙に「忌中」が減って「還浄」が目立って多くなったようだ。往生を還帰とも表すが、「還」という字は、もとに戻るというニュアンスがあるように思う。

 中国では古来、万物は大地より生じて、大地に帰す、という考え方がある。漢代、淮南子という書物には、「生は寄なり、死は帰なり」とある。又、東晋の陶淵明は死に臨んで、「陶氏まさに逆の旅の館を辞して、永く本の宅に帰らんとす」と詠んでいる。今生はかりそめの宿、死は本宅へ帰ることだと云うのだが、この詩は、「人生実に難し、死は如何なるべき、嗚呼哀しい哉」と終わっている。

 後世を知るということは、我が命はどこから来てどこへ帰るべきかを聞き、我が命の尊さにめざめることと思う。

 「忌中」という言葉とともに、静かに死を慎んで喪に服し、あるいは精進するといった習慣を忘れていってはいけないと思う。

 「還浄」という言葉から、中陰の意味は、肉親の死をとおし、私の後生の一大事を考える大切なご縁であると、受けとめるべきであろう。(新)

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(1999.4)

 インドの仏跡旅行。日本人に群がる子供。物乞い。手が無く治療できず包帯を巻いただけのケガ人。牛。馬。らくだ。やぎ。猿。焚火で焼かれる黒焦げの遺体。それをずっと見つめている遺族。赤ちゃんをおぶってお金を乞う子供。一時間待っても飛び立たない飛行機。真っ黒な列車。牛の白骨。ゴミの山。臭い。きれいで物に満たされ、なにもかもそろっている日本と比べると、びっくりするような世界なのに、インドの人は不思議と力強い眼をしていた。

 仏跡や僧院の跡で見たものは、当時の仏教の熱を思わせる遺跡と、インドの人からみれば金持ちの、観光客を目当てに寄ってくる子供や商売人だった。

 インドの何倍も物に満たされている自分は、インドでは贅沢な、日本ではひと昔前のホテルに泊まり、インドでは贅沢な、日本ではひと昔前のバスに乗って、過去の遺物として沈黙している仏跡を旅行し、インドとは違う日本に帰ってきた。

 日本では見なくていいその中で、生きていかなくて済むその中で、城壁で囲まれ、満たされた生活を捨てて説かれた釈尊の言葉は、気の遠くなるような人々の想いを経て、自分に届けられている。釈尊が涅槃に入られたというクシナガラの涅槃像で、「ここを拝んで下さい」と勧められたのは、釈尊の足だった。(長)

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(1999.1)

 昨年一年を振り返って見ると、いろんな出来事を思いだす。個人的な事、社会の中で起きた事その中でもとくに最近思う事は、不景気な事も影響しているのだろうが、お金の絡んだ事件の多い事。大人の社会でもそうだが、子供達の中でもお金をめぐって恐喝や、脅しが多発している。確かに財もこの世の中を生きていく上には必要不可欠なものであるが、「金がすべて」という考えはどうかと思う。わずかなお金のために人の命が奪われたり、お金のために自分自身の命を粗末にしたりそんなことを聞いているとなんだかやり切れない思いがする。なんでも、お金がかかる社会で、お金を沢山だせば価値があり、そうでないものはたいしたことは無い。そんな考えをいつのまにか私自身もしている。だけど少し冷静にこの社会をみるとそうでない事も沢山ある。

 阿弥陀仏の救いも財を積めば積むほど救われるとか、財のない人は救われないというのではない、それこそ「ただ」なのである。だけども、そこには素晴らしい価値がある。すべての人が平等に救われていく、お金を出さなくても阿弥陀仏の救いは、仏の心を頂いた人には同じように届くのである。宗教と呼ばれるものの多くが、財を積めば救われるとか、奉仕で徳を積めば救われるとか思われ、私達もそれが当たり前と思っているが、本当の宗教は決してそんなものではない。むしろ、何もいらないからこそ、その素晴らしさが知らされるのである。

 現実の社会は何も要らない、無償と言うわけにはいかない。だけども、お金ではない、相手を思いやる事や、やさしい言葉などはかけてあげる事はできる。そんな気持ちの通い合う関係を実現できないものだろうか。▼昨年は間和歌山の保険金詐欺事件や、コンビニの強盗事件、沢山の事件が起きた。今年こそは、そんな事件の犠牲となって悲しむ方の無い社会を私達一人一人が作っていかなければならないのではなかろうか。(武)

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(1998.10)

 先日、NHKの科学番組のシリーズで、「不老長寿を求めて」という番組を見た。最先端の科学者たちが、科学技術を駆使して不老長寿を追及していく。人間の遺伝子の中から老化させる情報を探し出して、それを組み換えれば永遠に年を取らない体ができる。あるいは人間のあらゆるDNA情報のみならず、現実世界のすべての情報をコンピュータに記憶させて、その中で自分が機械の中にあることすら気づかない完璧な世界を作る....等々。科学者たちは熱っぽくバラ色の未来像を語る。

 しかし彼らの視野にあるのは、「ずっと生きていたい」という人間の欲望だけで、「生きるとは何か」という根本問題への視座は感じられない。もし死なない体を得ることができたなら、それでだけ幸せに生きれるだろうか。我々の欲望には限りがない。死ねないとなると、逆に「死にたい」という欲望が大きくなり、自殺志願者が増えるのではないか。

 生と死は別物ではない。生きるためには死は不可欠である。我々は死ねるから生きることができるのである。

 曇鸞大師は、仏道を極めるために、まず中国古来の不老長寿を仙術を身に付けようとしたが、浄土の教えに出遇ってその愚を知り、仙経を焼き捨てた。このエピソードは今の科学の姿を予見したものともいえようし、すでにその答えも出されている。死を乗り越えて真実に生きることである。

 宗教はアヘンとか現実逃避とかいわれることがあるが、このような自然に逆らってもがく科学の姿こそが現実逃避のように映って仕方がない。我々はどこに向かっているのだろうか。(青)

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(1998.7)

 今年も高校野球の季節がやってきたが、不祥事を理由に出場できないという報道も耳にする。野球部員以外の生徒の不祥事でも問題になる「連帯責任」とか「全体主義」という考え方は、仏教の「縁起」の考え方にもとづいている。この世のすべてのものは、互いに関わり合い、支えあって存在していることを縁起という。つまり、縁起を言い換えたら「関係のないものは一つもない」ということになるだろう。だから子どもの行いの責任をとって親が辞職したり、極端な場合は自殺したりすることがあっても、われわれ日本人は当然のように受けとめてきた。これは仏教の縁起という考え方を知らず知らずのうちに受け入れているからだと思われる。

 これに対してキリスト教の社会では、個人ははじめから独立したものであるから、個人の行為の結果は当人だけが受け取ることになる。なぜなら、すべての個人は神の意志によって生まれてくるのであるから、社会の横のつながりより、神との「たてのつながり」の方がはるかに強いことになる。その結果、「個人主義」という立場が強く打ち出されてくる。個人主義の社会では、悪事をはたらいた本人は憎いが、そのような人間とかかわりのあった家族や親戚はかえって気の毒であり、同情の価値があると考えられる。だから、殺人犯の妻や子どもに同情の便りや見舞いの金品などが送られてくるという事実は日本人には理解しがたいものにうつる。

 個人主義を表面的に理解し、都合のよいときだけ利用する利己主義は、義務や責任を回避した勝手な振る舞いにすぎない。昨今、自分の損得には敏感だが、他人を思いやる気持ちに欠けた人間が目につくのは気のせいだろうか。日本人は縁起の考え方にもとづいて、横のつながりの中で自己の行動を律してきた。西洋人は、神とのたてのつながりの中で己を律してきたのであろう。自己の行動を律する基準を持たず、己の欲しいままに生きるのでは、畜生と変わりないと思うのは私だけだろうか。(松)

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(1998.4)

 本願寺中興の祖、蓮如の五百回遠忌法要が3月14日から本願寺で始まる。この記事が皆さんの手元に届くときには、すでに始まっていることだろう。その期間も11月3日までの百日にわたるロングランである。その100日を10日づつ十期に分けて、それぞれの期の特色を出すという計画である。

 例えば、「家族の日」と銘打った期、少年・スカウトや仏教婦人会・仏教壮年会・布教使など強化団体ごとの参拝が一期づつ。また夏休みには「児童・青少年の日」が10日間。100日のロングランをただ漫然と勤めるのではなく、この遠忌を各世代に対する布教の絶好の機会にしようという意気込みが伝わってくる。

 期間中に本山に一歩足を踏み入れると、昨年5月に発表された五木ひろしさんの遠忌法要の記念イメージソング『故郷(ふるさと)の人』のメロデイーが迎えてくれるだろう。

 境内では、新築された聞法会館と参拝会館がメイン接待所として開放されている。とりわけ聞法会館には「蓮如館」があり、蓮如上人を学ぶ場として用意され、また民間初の立体シアターなどハイテクを駆使したマルチメデイアが待ち受けているはずだ。お年寄りにはまたとない「上人土産話」となることだろう。(宮)

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(1998.1)

 平成9年の年末はいつもの暮れとは少しちがっつた。エルニーニョ現象の影響で、世界界中が異常気象となった。気候もそうだったが、日本の経済もどうかしていた。大手証券会社の倒産や、銀行の経営破綻、株価の低迷、何一つ良い話はなかった。二酸化炭素削減の国際会議も京都で行われたが、先進国と発展途上国の間で、意見の食い違いかあり本当に削減できるのか心配だった。

 バブルの時代がよすぎた、と誰かがもらしているのを聞いた。社会の中で生活している我々にとってみれば、これらは大問題である。

 しかし、少し視点を変えて見ればすべて、我々の我によって起こった問題である。生活の、便利さや、自分自身の利益のために、いろいろなものを犠牲にしてきた。そのつけが、このような形で起こっているのではないだろうか。

 家の中ががたがたする、という言葉がある、我と他が、ぶつかりあい、意見がまとまらず家の中が騒がしい、そういう意味もあるそうだ。我が強すぎると、他が目にはいらない。自分の事だけや、自分の国のことだけでなく。他の事も考える事ができなければ、自分自身の幸せもありえない。

 仏教の教えの中に餓鬼救済の話がある。餓鬼は自分の大きな長い手で、目の前のご馳走を、食べようとするが、自分の手でそれをつかみ食べようとすると手が大きく長いので口に入れる事が出来ない。それで、苦しんでいるとお釈迦様は、自分だけで食べるのではなく、その、長く大きな手で他の者に食べさせてあげなさい、そうすれば、あなたも食べさせてもらえると、忠告した。

 我々もこの餓鬼のような人間になってはいないだろうか。(武)

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(1997.10)

 「おはようございます」と真っ黒に日焼けをした園児達が、待ちに待ったように登園してくる。いよいよ、我が幼稚園でも二学期がスタートした。園児は、幼稚園に着くと様々に自らの楽しかった夏休みを先生に報告する。そんな風景がどこにでもあるように思えるが、やはり、そうとは限らないようである。

 新学期早々、全国各地でいじめを苦に自殺をした子供達がいるとのニュース。留まることを知らないいじめによる自殺者。このニュースが流れる度に同じような事を聞かされる。学校側では、いじめは無かったと。最近では、生徒だけでなく学校側までもが傍観者なのか。確かに傍観することは、何に対しても気が楽でいられるかもしれない。物事に深く立ち入ることは、時には苦にもなり、恐怖に怯えることにもなるだろう。だが、その苦や恐怖に向き合ってこそ初めて見えてくる道があるのではなかろうか。

 人間として生まれたら必ずやってくる己れの死。その苦や恐怖をタブー視する限り、自分の中の心の闇が破られることはない。いじめに対しても、恐らく皆誰もが持っている心の葛藤に、まずは打ち勝つべきではないか。

 教師は、形だけでなく真の「いのち」と「いのち」の出遇いを大切にしよう。どれだけ向かい合ってその子の「いのち」を見つめるかが、教師の資質になるのではないか。

 今、思うこと。それは、まず己れの「いのち」から傍観することをやめよう。そうすれば、自然とそこに「いのち」と「いのち」の出遇いが生まれるのではなかろうか。(龍)

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(1997.7)

 神戸の少年殺人事件。犯人のメッセージを読むと、なんだか心をえぐられたような気持ちになる。
 ある小学校の先生が、休憩時間に生徒と生まれたばかりのうさぎを見ていたら、授業開始のベルが鳴ったとたん、穴を掘ってうさぎを生き埋めにしたという。生徒のことを考えてのことだそうだ。

 どちらも自分の都合で他の命を奪っているといえる。しかし自分はどうかと考えると、生きているからには他の命を奪っていることには変わり無い。嫌いな人に対して、「こんな人はいなければいいのに」と思うこともある。

 前出の彼らの行為を知った時、えぐられた気持ちになるのは、案外、自分自身の奥深くをさらけだされるからなのかもしれない。普段意識せず、当たり前と思っている自分の内面。たとえその内面を指摘されても、しょうがないと自分の都合を正当化し、また、自分はそんなことはないと思ってしまう、これまた無意識の自分。どの自分も自分には変わりない。

 それなら本当の自分とは何なのか。一つしかないと、わずかながらも自覚する、命をもった自分とは何なのか。

 念仏は、すべての命を捨てることはないという、仏の願いを伝える。自分の都合も、他の都合も飲み込んで、おまえの命は、それだけすばらしいものだと叫び続ける。自分の「何なのか」という思いをも飲み込んで。

 臓器移植技術の発達から出てきた、脳死の判定に関する論議。自分でもはかりきれない、命の問題は、多数の自分の都合を基準に、どこかで線を引かなければならない「法律」で、割り切れるものなのか。(長)

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(1997.4)

 今年一月、大学時代の友人が肺癌で亡くなった。

 「誰にでもそんな日が来ることはあり得ることだとは思っていた。色々な人の体験を聞いてきた。しかし、自分にそんな日が来るとは、実はその瞬間まで思いもしなかったのだ。」

 亡くなる前日の手記は、このような言葉で始まっている。私たちは平素「また会いましょう」といって、すっと別れていく。また会えるに違いないと無意識の内に思いこんでいるだけなのである。私が普段ほかの人を見ている、見ていると言うが、見たか見てないか判らないような見方をしているのではないだろうか。そんなことを考えたときに、「いのち」を見る眼というのはもう一つあるんだなということを思う。二度と再び会うことができないかもしれない、たった一度きりかもしれないと思ってじっと見つめたとき、そのとき見えてくるもの、それが「いのち」ではないだろうかと思う。

 実は私達が見ているもの、見えているものは「いのち」の影でしかないんじゃないか、影みたいな「いのち」を、影みたいな人生を生きているんじゃないだろうか、そんなことを思う今日このごろである。(宮)

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(1997.1)

 水曜日の夜、忠臣蔵を放送していた。現代を代表する役者が出演するので、どんな忠臣蔵になるのかと思って見てしまった。

 赤穂浪士は、主君の仇討ちをするため、さまざまな辛苦に耐えて本懐を遂げる。しかし、復讐をすることから新しいものは生まれない。別の恨みが生じるだけである。人間は悲しいことに、マイナスの方向へも力を発揮することがある。

 イスラム教の教えに「目には目を、歯に歯を」というのがある。これは報復をすすめる教えではない。拡大報復を戒めることばである。車のクラクションを鳴らされたことに腹を立てて相手を殺してしまうのは拡大報復である。そしてイスラム教は、報復をするのではなく、賠償金をもらって相手を許してやれと言っている。

 法然上人は幼少の頃、武士であった父親を殺される。父親の枕元で復讐を誓う法然上人に父親は「敵を恨むな。そなたが私の仇を討てば、相手の子はまたそなたを仇とねらうであろう。そなたは出家して私の菩提を弔ってくれ」と言う。これは『法句経』に出てくる教えそのままである。法然上人はすばらしい人生の指針をいただいて、その後の人生を歩まれた。み教えは人生の指針である。

 曾野綾子の本にこんな話が出ていた。スペイン戦争で父親を殺された子どもに母親が言う。「あなた達は、お父さまを殺した人たちを許すことを生涯の仕事にしなさい」。赤穂浪士とは違った生き様がここにある。確かな人生の指針をもたぬ者の生き様は華やかに見えても悲しい。(松)

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(1996.10)

 天台宗で行われる千日回峰行は、7年間にわたって谷や峰、京都の市街を巡拝する荒行である。この行を達成した阿闍梨(あじゃり)の話を新聞で読んだ。

 光道覚道阿闍梨はインタビューに答えていう。「自分は仏に生かされているんだと、実感しました」

 浄土真宗のみ教えをいただくものが聞いても何の違和感も覚えない言葉だ。むしろ深くうなずくものがある。歩む道は違っても、その根本は同じであるといえよう。宗教は生き方を教えるものである。その点においては、いずれの道を歩むのか厳しく選ばなくてはならない。しかし、「わが仏のみ尊し」が真実に目覚めた者の姿であろうか。人間が目覚めるということは宗教の別を超えて普遍的なものであろう。われわれはみ教えを通じて、われわれ自身の根本の問題、すなわち人間存在の根源に目覚めていくということを学ばなくてはならない。(松)

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(1995.10)

 フランスと中国が世界中の反対を押し切り核実験を行いました。科学の進歩が著しい現代、その進歩により私たちの生活が豊かになった反面、核を開発し保有するようになったことは、非常に残念なことです。

 ところで、その科学の進歩により私たちはなんでも物事が科学的に証明されるかまた、目に見えるものしか信用しなくなりました。それ故「本当にお浄土はあるのか?」「阿弥陀如来はおられるのか?」と疑問をもつ人がいますが、目には見えないが、如来さまの大きなはたらきを感じていきてこそ、すばらしい人間の姿があると考えます。

 「目にみえぬ慈悲が ことばにあらわれてなむあみだぶつと声で知られる」
 これは、妙好人才市さんの詩です。才市さんの詩は、素朴な表現ですが、読み返すごとに一層味わい深くなります。私たちも日々聴聞し、念仏申す生活を送りたいものです。(潤)

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(1995.7)

 仏典に無想定(むそうじょう)という瞑想法が見られる。心の流れを断ち切って心身が脱落した状態となり、その果報として無想天という天界に生まれることができるという。しかし無想定は、凡夫がそれを悟りの境地と勘違いして求める修法で、聖者が行うものではないとされる。心身脱落の心地よさは悟りそのものではなく、そこに安住してしまうと道を誤るということか。天界とは快楽に安住する世界であって、仏教が導く悟りの世界ではない。聖者はそのことをしっかり認識した上で瞑想を修するのである。

 このことは重要な教訓を語っている。宗教体験は、ある種の感動・快感をともなうことがある。しかし、それ故にそれが目的化してしまう危険性もある。心地のよい宗教体験に酔いしれ、そこに安住してしまえば、かえって真実から遠ざかり自己を見失う。真の宗教とは、常に自己に問いかけ、現実を見つめる眼となるべきものであろう。宗教はアヘンであってはならない。宗教のあり方が厳しく問われている昨今、今一度わが身を振り返り、法に問うていきたいものである。(青)

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(1994.10)

 日本に仏教が伝わったのは今から1400年あまり昔になる。古来、「三国伝通」といってインド・中国・日本と仏教が伝わってきたといわれるが、実際に仏教伝来のルートをたどると、インド・パキスタン・アフガニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタン・キルギスタン・中国・モンゴル・北朝鮮・韓国の諸国が関わっている。また、インドからネパール・バングラデシュ・ブータン・ビルマ・ラオス・ベトナムを通過して中国南部に至る南方のルートもあったそうだ。さらに、スリランカ・インドネシアに寄航してして中国へ入る海上のルートもあった。

 これだけの広がりをもって仏教は東の果ての日本まで伝えられた。もちろん、日本の仏教とは異なるがミャンマー・タイ・カンボジアなどへも仏教は伝わっている。不思議なことにインドより西には仏教はあまり伝播しなかった。仏教は世界宗教といわれるが、この意味ではアジアで生まれアジアで育った宗教ともいえようか。そのアジア各地の人々がこの広島に集まった。いま広島はちょっとしたアジアブームである。アジアの宗教は仏教だけではないが、仏教伝来の歴史を思うとき、今回のアジア大会が一過性のものに終わらず、これを契機に仏教徒としてアジア各地の人々との相互理解を深めていきたいものである。(青)

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(1994.7)

 経典に「四食(しじき)」という言葉がみられます。段食・触食・思意食・識食の4つで、人間を養い育むものとされます。段食は普通に口にする飲食物です。触食は、私たちの身体に触れるものなど、思意食は心に思い描いたこと、識食とは五感に感じ心に認識したことで、それらはすべて生きるのに必要な「食」とされるのです。

 厳しい冬が去って、春の空気は暖かく、目に触れる花や緑は心をすがすがしくします。まさに食べ物以上に私たちの心を育んでくれているような思いがします。聴聞も私たちの心を育てる「食」にほかなりません。新しい息吹が芽生える春、それは聴聞の季節といえるのかもしれません。

 平成の米騒動ともいわれ、食料事情が乱れる中、心の「食」だけは十分に摂取し続けたいと願う今日この頃です。(青)

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