阿難(あなん)


 『無量寿経』において「光顔巍巍」たる釈尊の 輝きを見抜き、出世本懐の説法を語らしめるという、重要な役割を演ずるのが、仏弟子 阿難(阿難陀、アーナンダ)です。阿難は、釈尊のいとこにあたり、十大弟子の一人に数えられます。釈尊の侍者として仕え、今でいう秘書のような役割を果たしました。それは釈尊晩年まで及び、その入滅にも立ち合いました。この間、釈尊の説法を最も多く聞いたため、多聞第一(聞くことに最も優れる者)と称されるまでになったのです。

 釈尊亡き後の教団は、偉大な指導者を失い、教義の混乱が起こりかねない雰囲気に満ちていました。十大弟子の一人、摩訶迦葉(マハー・カーシャパ)は、それを憂い、多くの高弟たちを集めて結集(けつじゅう)つまりお経の編纂会議を行ない、釈尊の教えをまとめて後世に伝えようとしました。この結集で、阿難は中心的役割を担います。釈尊のそばで聞き続けた教えを、優れた記憶力で語り続けました。多くの経典が「如是我聞」(私はこのように釈尊から聞いた)という言葉で始まりますが、この「我」とは多くは阿難のことなのです。

 当初、摩訶迦葉は阿難が結集に加わることに難色を示しました。多聞第一とはいえ、阿難はこのとき高弟の中で唯一さとりを開いていなかったからです。阿難は懸命に努力してようやくさとりを得て、なんとか結集に間に合ったのでした。

 そのとき指導的立場にあったのは摩訶迦葉 ではありましたが、教団の人たちの信任を集めていたのは、むしろ阿難でした。情に厚く、また色男でもあったため、特に女性に人気があったようです。釈尊の養母の願いを見捨てられず、釈尊に懇願して、当時許されていなかった女性の出家を認めさせたのもこの阿難なのでした。後の仏教教団は、阿難を師と仰ぐ人たちによって大きく発展したといわれます。2500年の時を超えて、私たちが生き生きとした釈尊の教えにふれられるのは、阿難尊者あればこそといっても過言ではありません。