道綽禅師

七高僧第4祖
562年〜645年(日本は飛鳥時代、聖徳太子の治世)

● 著作 『安楽集』

● 特色 仏道に聖道・浄土の二門があることをあきらかにし、阿弥陀如来の浄土に生まれる道をすすめた。(聖浄二門)

●略伝

 曇鸞が往生して20年後、道綽は北周の太原の近くで生まれました。北周の武帝は、仏教をきらい、仏教徒に対する過激な迫害を行いました。ある者は法を護って倒れ、多くの者は耐えきれずに仏法を捨てました。道綽はこの受難の時代に13才で仏門に入りました。やがて排仏の嵐がおさまり、再び仏法興隆の世となると、彼の温厚で礼儀正しい人柄は、深い学識とあいまって、多くの人から敬われるようになりました。道綽は涅槃宗に帰依し、『涅槃経』の講釈は24回にもわたったほどでした。

 隋の時代となった大業4年、曇鸞がかつて住した玄忠寺にたまたま立ち寄った48才の道綽は、曇鸞の碑文を目にします。碑文には、曇鸞が仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰したことが書かれてありました。道綽は碑文を読んで強い衝撃を受けます。

 「曇鸞大師ほどのお方が、ご自身の智慧や修行の功を頼りとせず、如来の本願におまかせになった。わたしのような者がわずかな知見を誇ってどうなろうか。すでに釈尊が入滅して1500年余りたった末法の今日、いかにして正しいさとりを完成させる修行ができるであろうか。わたしも聖道自力の道を投げ捨てて、浄土の他力の教えに帰依したい。曇鸞大師よ、わたしを弟子として迎え入れたまえ」と思念して、ただちに涅槃宗を離れ、玄忠寺に移り住んで、曇鸞の『往生論註』を導きの書として念仏の生活に入ったのです。

 道綽は、生涯に『観無量寿経』の講讃を200回以上行いました。主著『安楽集』は、『観無量寿経』を明らかにしたものです。晩年、道綽は日に七万遍の念仏を称えたといいます。道綽の教化により、念仏は中国の一般の老幼にまで及びました。道綽80才の時の弟子に善導がいます。