源信和尚

七高僧第6祖
942年〜1017年(日本は平安時代、『源氏物語』が書かれた頃)

● 著作 『往生要集』

● 特色  浄土に「真実の報土」と「方便の化土」のあることをあきらかにし、「真実の報土」を願う者は、本願の名号を信受することをすすめた。(報化弁立)

● 略伝
 七高僧第六祖、源信和尚は恵心僧都とも呼ばれます。平安時代の中ごろ、奈良県の二上山のふもとの当麻に生まれ、幼名を千菊丸といいました。千菊丸は7才の時、父と死別します。

 9才の頃、近くの小川で鉢を洗う僧を見て次のような問答をしたといいます。

 「お坊さま、向こうの川の方がきれいですよ」
 「すべてのものは、浄穢不二じゃ。きれい、きたないは凡夫の心の迷いじゃ。このままでよい、よい」
 「それじゃ、どうして鉢を洗うの?」
 「……」

 数日後、比叡山から使いが来て、利発な千菊丸の出家の話が決まりました。問答をした旅の僧の勧めによるものでした。千菊丸は比叡山に登り、良源僧正の門下に入り、13才の時、髪をおろして得度し、源信の名を与えられました。

 源信の才知はまわりの者の目を見張らせました。15才にして時の村上天皇の前で特別に『称讃浄土経』を講じる名誉を得ました。天皇をはじめ感嘆しない者はなく、数々のほうびの品と「僧都」の位が授けられました。源信は早速この喜びを当麻に一人で暮らす母に知らせようと思い、使いの者にほうびの品を持たせます。しかし、ほうびの品は返されてきて、和歌が添えられていました。

 「後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」

 母の厳しい訓戒にうたれた源信は精進を重ね、比叡山の横川の恵心院に住んで念仏三昧の日を送りました。三十数年後、母は念仏を勧める源信の膝を枕に安らかな往生をとげたといいます。

 源信は、「私のような頑魯(がんろ=愚か)の者が救われていく道は阿弥陀如来のみ教えしかない」と『往生要集』の序文に記し、安養(浄土)に生まれて悟りを開く浄土門の教えに自ら一筋に帰順し、浄土の教えに帰入することをすすめました。

 源信は『往生要集』を著した翌年、「二十五三昧式」という念仏実践の文をつくり、毎月15日に首楞厳院において25人の結衆が参集して念仏三昧を修めました。

 「二十五三昧式」には、看病や葬送のことについて書いてあり、現代における老後の念仏生活の指針になり得る内容を持っています。結衆に病人が出た場合、見舞い看病し念仏を勧めた源信らの活動は、現代のビハーラ活動の先駆ともいえるものです。

 源信は、主著『往生要集』をわずか六カ月で書き上げたといいます。『往生要集』は源信44才の時の著作です。これは、ダンテの『神曲』にも比すべき、わが国有数の宗教文学作品で、引用文献の多さでは、七祖の書物の中で第一の書物です。源信は、『往生要集』で全仏教を踏まえて念仏を明らかにしたのです。