浄土の六鳥


 『仏説阿弥陀経』の中に、浄土には六種の鳥がいて仏法僧の三宝を奏でて浄土を荘厳しているといわれ、その名が「白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦稜頻伽・共命之鳥」と示されます。
 これら六種の鳥のうち、白鵠(びゃっこう)と孔雀(くじゃく)は、視覚的な美しさによって浄土を荘厳し、鸚鵡(おうむ)と舎利(九官鳥の一種)は人語を解して仏法を奏で、迦陵頻伽(かりょうびんが)は流麗な音声で三宝を荘厳し、共命之鳥(ぐみょうのとり)はいのちの平等を体現しています。それぞれ個性的に浄土を彩る鳥たちです。

白鵠・孔雀

 白鵠と孔雀は、もっぱら視覚的な美しさによって浄土を荘厳している鳥です。白鵠は実在の鳥でいえば白鳥あるいはガチョウの一種といわれ、透き通るような純白な姿で仏と浄土の汚れない清浄性を表します。孔雀は華麗な衣装を身にまとい、醜いものの全くない浄土の真実の美を体で示します。どちらも純粋で混じり気のない仏の心を体現しています。
 特に孔雀の気高い姿は華やかな浄土の象徴ともいえます。インドには野生の孔雀が多く生息し、高級ホテルなどでは庭先に放し飼いにされたりするほど身近な動物です。猛毒のヘビを食らうと考えられ、密教ではその強い解毒力が神格化されて、孔雀明王という菩薩が信仰されています。ともかく、浄土の白鵠と孔雀は、古代のインドの人たちがその美しさに魅せられ、そこに極楽浄土を目の当たりにして、往生を願っていた現われでしょう。

鸚鵡・舎利

 鸚鵡はお馴染みですが、舎利とは、九官鳥の一種ともいわれ、同じく人間の言葉を話す鳥です。浄土にいる彼らは、仏法を奏でて浄土を荘厳します。そのさえずる声がすべて仏法に鳴り響くのです。
 日本では「おうむ返し」などと揶揄されたりして、コミカルな役回りが定番ですが、仏典において数多く登場する鸚鵡と舎利は、人語を解する賢い鳥で、決して道化役として描かれることはありません。その一例を紹介しましょう。
 釈尊が亡くなる最後の旅をされたときの話。ヴェーサーリーという町に住む遊女アンバパーリーは、隣り村のナーディカ村に釈尊がおられ、やがて自分の町にやって来られることを聞きつけます。彼女は、自分のマンゴー園に真っ先に来て頂くようにと、飼っていた鸚鵡に釈尊へ伝言を命じました。主人の命を受けて飛び立った鸚鵡は、途中、子どもたちに戯れに弓矢で射られますが、仏の使いを傷つけてはならないと、子どもたちを諭します。やっとの思いでナーディカ村にたどり着いた鸚鵡は、釈尊に主人の伝言を伝えますが、結局、帰る途中鵄に殺されてしまいます。しかし鸚鵡は、仏使の役目を果たした因縁により、天に生まれました。鸚鵡は、種々の花を釈尊に供え、光明を放ってナーディカ村を照らしました。釈尊は天のために説法され、天人たちは歓喜して、今後は決して殺生をなさないことを誓ったといいます。(『根本説一切有部毘奈耶薬事』第六より)

迦稜頻伽

 迦稜頻伽(カラヴィンカ)は妙音鳥ともいわれ、その鳴き声はきわめて優雅で微妙といわれます。しばしは、仏の説法の音声の流麗さが「迦稜頻伽の如し」と喩えられます。わが国では音楽の神さまと同一視され、楽器を手にした人面鳥身の姿で描かれることが多くあります。
 常に群れをなして行動し、現実には雀あるいはカッコウの一種とされます。インドのある王は、迦稜頻伽を一羽、四方が鏡に囲まれた部屋に入れて飼いました。鳥は周りの鏡に映った自分の姿を見て、仲間がいると勘違いして鳴き続け、王はその声を楽しんだという話が伝わります。

共命之鳥

 共命之鳥は、六鳥の中では唯一この世には見られない鳥といえますが、最も象徴的に仏の心を体現しています。その身体は、1つの胴体に2つの頭を持つ双頭の鳥で、2つの頭がそれぞれ別々の心を持っています。
 『仏本行集経』という仏典に次のようなエピソードが見られます。カルダとウパカルダという名の2つ頭の共命之鳥がいました。ウパカルダは、自分が眠っている間にカルダがおいしい木の実を腹いっぱい食べるため、起きたときには満腹でなにもごちそうが食べれません。お腹は一つだから。いつもこれを不満に思っていたウパカルダは、あるとき毒の実を見つけました。これを自分が食べれば、同じ身体を持つカルダは死んでしまうだろうと考えたウパカルダは、カルダが眠っている間に毒の実を食べました。案の定、カルダは悶絶して死んでしまいます。しかし当然のことながら、身体は1つなのでウパカルダもやはり死んでしまったということです。
 共命之鳥は、お互いが生かし生かされているという「いのちのつながり」を体現しています。もちろん浄土の共命之鳥は、カルダとウパカルダのような愚かなことはせず、お互いのいのちを尊重しあって生きています。それが仏の心ということです。